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杜の都も夏真っ盛りのある午後のこと。
「暑いですねえ……」
惠理はへとへとになりながら、仙台の目抜き通り、青葉通りを歩いていた。相変わらずの不思議な事件に引っ張りだされていたものの、無事解決。いつもならば意気揚々とあやしバイオリン工房に帰るところ――なのだが、今日は想像以上に暑くそれどころではない。
灼熱の日差しが、ケヤキ並木の合間を器用に縫って落ちてくる。ケヤキのおかげで日陰があるだけましなのだが、街中を熱した太陽は容赦なく惠理を包み込み、仕事で疲れた身体から、なけなしのやる気と水分を奪っていくのだ。
「あーもう、思い切って仙台駅から一番丁まで、地下鉄かバス使えばよかったかなあ」
  最寄り駅あたりの名を挙げると、「なに言ってんだ」と呆れた声が飛んできた。
「たった一キロちょいだろうが。ぐだぐだ言ってる暇があったら、足動かせ」
もちろん惠理のすぐ横にいるバイオリンの精、弦城からだ。仏頂面は変わらず。加えてこの灼熱地獄で一人、涼しい顔をしている。幽霊みたいなものだから、暑さなんて関係ないらしい。惠理は少々羨ましい気分になる。あまりに熱いと弦城の本体にも悪影響だが、このいろんな意味でクールな表情を見ると、それほどではないのだろう。
「言っておくが」と弦城は眉を顰めた。
「そのへんの適当な店に入って涼もう、なんて思ったってだめだからな」
「え」
どうやら、たまたま通りがかったカフェをちらりと見たのがばれたようだ。
「でもほら、仕事はきちんと終わりましたし、ちょっと休憩しても……」
「そうやって簡単にカフェで休むから、あんたはいつまで金が貯まらないんだ。すぐ買い食いするし、エンゲル係数まずいんじゃないか」
「そ、それは今関係ないじゃないですか!」
「とにかくだめだ。暑い暑い言ったって、今すぐ水を飲まなきゃ死ぬってほどじゃあないだろ。じゃあ却下だ。ほら、行くぞ」
「そんなあ……」
ほんの少し期待していた惠理は、がっかりと肩を落とした。確かに弦城の言うことは正しい。工房に帰ればクーラーと除湿が効いた快適空間が待っている。冷たい水だってある。寄り道してる暇があったら、歩いた方がいい。ごもっともである。
でもなあ。惠理は、そっけない弦城に気づかれないよう息を吐き出した。
ほんとは、弦城さんと寄りたいところがあったんだけどな。
弦城が満更でもなかったら、一緒に行きたい店があった。さきほどチラ見した店でなく、もう少し先のちいさな喫茶店だ。夏季限定でずんだ氷というかき氷を出しているらしく、通る度に気になっていた。
今日はよい機会だと思ったのだ。仕事は完了、時間もある。弦城も一緒だ。
惠理は弦城と食事するのが好きだ。最初は、幽霊状態でなにも食べられない弦城の前で食事なんて、と遠慮していたのだが、どうやら逆らしい。クールを決め込んでいる弦城自身は気づいていないのだろうが、惠理が美味しいと喜ぶと、弦城はとても嬉しそうにする。優しい顔をする。
そんな表情を見るのが、たまらなく幸せだった。惠理のエンゲル係数が上昇しているのも本当のところ、それゆえである。弦城には秘密だが。
しかし今日は、残念ながら。仕方ない。また休日にでも誘ってみよう。弦城は少々気難しいから、簡単に首を縦に振ってくれる気もしないけれど。

しばらくして、弦城が突然「おい」と声を掛けてきた。
「暑くて死にそうだ。涼しい場所で休みたい」
思わず惠理は、「ええ?」と返してしまった。
「なに言ってるんです。ちゃっちゃと工房に戻れって言ったの、弦城さんじゃないですか」
「そうだが気が変わったんだ。俺だってこの暑さにだいぶ参ってる。今すぐ涼みたい」
「えー全然そうは見えないですけど。余裕って顔してるじゃないですか」
「化けて出てる俺の姿で判断するな。今は、できる限り本体から意識を逸らしているだけなんだ。わかってるだろう、バイオリンのニスやニカワは暑さに弱い。ああもう限界だ。ケースの中は息苦しいし、ニカワは溶けそうだし。いいから休ませてくれ」
だったらさっき休めばよかったのに、と思ったが、惠理は肩をすくめるだけにした。
「なるほど、わかりました」
弦城が面倒なことを言い出した場合、大概翻意は不可能だ。素直にわがままを聞いてあげるに限る。
それにバイオリンにとって暑さが天敵なのは本当だから、惠理は純粋に心配でもあった。高温多湿の日本の夏は、弦城を彩る美しいニスや、接着材のニカワとはすこぶる相性が悪い。本当に、ニカワが溶ける一歩手前くらいできついのかもしれない。弦城は一見わがままだが、実は優しくて繊細だ。肝心なところでは我慢しがちなのだ。休憩したいというなら、そうしてあげないと。
甘いのかな私。いやいや、そんなことないよね。
ふと『惚れた弱み』と言葉が脳裏をよぎり、惠理は急いで打ち消した。
「じゃあどこかで休みましょう。えっと……」
とにかく涼しい場所に弦城を避難させなければならない。適当なカフェなり店なりを探す。偶然にも、惠理が行きたかった喫茶店の軒先がすぐだった。ラッキーというかなんというか。
「あそこの喫茶店でいいです?」
「どこでも構わない。あんたの好きなところにしろよ」
弦城は気だるげに額を押さえる。どきどきして惠理は目を逸らした。弦城がこういう仕草をするのは珍しい。イタリア的な風貌と相まって、妙にセクシーに思えてしまう。
「ええとじゃあ決定で」
なんか変だな私。暑さのせいかな。そんなことを思いつつ、惠理は喫茶店のドアに向かった。
喫茶店はこぢんまりとしているが趣味がよく、なによりクーラーがきっちりと効いていた。弦城としゃべっても目立たないよう、端に置かれたビロード張りのソファに深く背を埋めた惠理は、当然ずんだ氷を頼んだ。運ばれてきた、期待に違わぬそれに歓声を上げる。
「うわあ、美味しそう! 食べてもいいです?」
「もちろん」と向かいで弦城が言う。どことなく緩んだ表情だ。見たかった顔が見られて嬉しくなった惠理は、「では」と大きくスプーンで氷を崩して口に入れた。
「どうだ」
惠理はきらきらと目を輝かせて答えた。
「最高です! 豆の香りがさわやかで、でもコクがあって、さっぱりした氷とすごく合ってます。あ、見て下さい、もちも入ってるみたいです!」
「いいから早く食べろよ。溶けるだろ」
スプーンで拾いあげたもちを見せると、弦城の目が細まった。ますます心が弾む。それじゃあお言葉に甘えて、とスプーンを口に運んでいると、弦城が頬を緩めた。
「あんた、妙に楽しそうだな」
「そうですか?」
「にこにこしてるだろ。そんだけそれ、うまいんだな」
そうじゃないんですよ、と言いたいのを押さえて惠理はにっこり笑った。
「そうなんですよ、おいしいんです!」
確かに美味だ。ただ惠理をにこにこさせているのは、氷よりなにより、向かいで笑みを浮かべている弦城だ。でも言わない。本当の理由は秘密だ。明かしてしまうと、弦城は照れ屋だから隠そうとするだろう。それは残念すぎる。
「ならよかった」と弦城は満足げに頬杖をついた。「あんたいつもここを通る度に、そのずんだ氷とやら、食べてみたそうだったもんな」
「え? やだ、気づいてたんですか?」
「そりゃ気づくだろ。毎回物欲しげに、『期間限定』って文字を見てるんだから。ま、食えてよかったな。たまたまにしても」
  そうですねえ、と惠理は笑った。
「弦城さんがすぐそこで、休みたいって言いだしてくれてラッキーでした……って」
あれ? 惠理はふとスプーンをとめて弦城を見つめた。確かにラッキーだ。でもそれって、偶然だろうか。
「……もしかして弦城さん、私のためにわざとわがまま言いました?」
「まさか」
クールな即答だ。ただ同時に、弦城の目はすっと横に泳いでもいた。工房主の大地がいたら、爆笑しているレベルにわかりやすく。
弦城さん、それじゃ認めているようなものですよ。
たちまち惠理は、自分の顔が赤くなるのに気づいた。弦城は最初から、惠理にずんだ氷を食べさせようとしていたのだ。それで適当なカフェに入ろうとしたときは帰ると突っぱね、この店の前で休みたいとだだをこねた。
「嬉しいけど、なんて回りくどい……」
顔を覆うと、弦城は早口で言い訳した。
「違う、俺は別にどこでもよかった。身体を冷やしたかったのも本当だ」
あくまでそう言い張るつもりらしい。ああもう、と惠理は思った。面倒くさい人だな。
でも好きだな。
ぽん、とそんな気持ちが脳裏に飛びだしてきて、惠理は慌てた。折角涼んでいるのに、ますます暑くなってくる。
「あー弦城さんってほんと、優しいのに素直じゃないですよね」
ごまかすように両頬を押さえて言うと、「だからそうじゃない。全部暑さのせいだ」とそっぽを向いて返ってくる。
暑さのせい。そうか。そうかもしれない。そういうことにしておこう。
はやく熱がひいてほしいと思いつつ、ずんだ氷を口に運ぶ惠理なのだった。






『あやしバイオリン工房へようこそ』(2018年刊行)をもとにした短編です。
この短編に関しましては個人的に書いているものなので、もしなにかありましたら奥乃までお願いいたします。
奥乃桜子

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